『仏説無量寿経』にある、お釈迦さまのお心に感銘した弥勒菩薩が、まことの智慧に触れ、心が開かれていく、今、阿弥陀如来のみ名を聞かせていただける喜びを述べられた言葉です。
昭和四十二年の富山別院再建に際し、細川家第十二代庄左エ門(富山県中新川郡上市町)より寄進を受けた明如上人のご染筆を扁額として、本堂に掲げております。
※敬称略
年間行事
富山別院の歴史
寛政年間に結成された「富山大谷講」が「本山会所」を設け、留守居を置いたことに始まります。
明治3年10月に富山藩から領内の寺院に対して、突如「合寺令(すべての寺院は一宗一ヶ寺にあらため、ただちに合寺すること)」が発布、断行されました。
そのような状況の中で「富山大谷講本山会所」に臨時の説教所が設けられました。
その後、本山へ請願し、明治12年12月に本願寺説教所開設の許可を得ました。更に、明治17年8月には本堂(桁行十六間、梁行十六間、約二百七十坪)、庫裏の新築落成を迎えた頃、説教所から別院への昇格運動もはじまり、政府に陳情を重ねた結果、正式に別院昇格への許可を受けました。
しかし、この本堂は明治18年5月に市内より出火した火災によって灰燼と帰し、再建した仮本堂も明治32年の市中火災で再び焼失。しかし、佐藤助九郎氏(佐藤工業株式会社創業者)の篤信により再び仮本堂が建てられました。
明治40年には教化伝道の本拠として富山教区教務所が置かれました。その後、大正8年11月に別院再建のご消息をいただき、再建記念事業として徳風会館、徳風幼稚園を建設、大正15年に本堂(間口十七間、奥行二十一間、総欅造、約四百坪)の再建にいたりました。しかし、この本堂も昭和14年5月に焼失してしまいます。
その後、再建準備を進めておりましたが、昭和20年8月1日深夜の富山大空襲により、境内総ての建物を焼失いたしました。終戦を経て、戦後復興の混乱期の中で、本堂の再建をめざして仮本堂が建てられました。昭和30年に勝如上人より復興のご消息をいただき、教区の寺院、門信徒の懇念の結集により、昭和42年7月に勝如上人ご親修のもと入仏慶讃法要が勤修されました。それが現在の本堂です。
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